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ゆうゆうゆうぜん de kirie 特別編 『カラヴァッジョの薔薇花序』のポリリズム的変容(説明)
    (「この人を見よ!」)
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カラヴァッジョの薔薇花序
『カラヴァッジョの薔薇花序』の概念継続的変容
『カラヴァッジョの薔薇花序』のポリリズム的変容
薔薇花序を掲げる自写像

末の今日、いつもどおりに5点の切り絵ができあがっているべきだが、今月は2週間ほど前に1点作っただけで、残りはもう間に合わない。切り絵のアイデアは思いついた時に小さな紙片にタイトルを書いておくことにしていて、それが今月は10点ほどある。それを元に数点ほど作れなくもなかったが、今月分は来月にでも回そうという気になった。さて、この出来事は切り絵にしたが、最近自転車で橋をわたっている時に車道に転げ落ち、右肩を思い切り打ってしまった。それ以後、右肩の痛みが治るどころかますますひどくなって、じっとしていてもズキズキする始末で寝返りもできず、パソコンのマウスを操作するにも苦痛を感じることがしばしばだ。実のところ、この文章を打つのもかなりつらい。それでも今月は5点の切り絵の代わりに臨時にほかのものをと考え、今朝から作業にかかって、この文章を完成させればその臨時のページができるというところまでHTMLファイルを構成した。仕事柄、右手が自由に動かなければ全く困ったことになるのだが、先日桂離宮の有名な笹垣を3日ほど通って写生していた時、地面に置いた筆箱の中の消しゴムを取ろうとして腕を伸ばすと、それだけでまた肩がずきんとして、その後しばらくは鉛筆が思うように動かなかった。そんな経験はこれまで皆無であっただけに、少しうろたえた。自分では黄金の右手と思っているのに、それが自由に動かないとは何とも情けない。切り絵を作るにも不自由というほどではないが、これも調子によりけりで、今こうして右肩をさすりながらパソコンのキーを打っている状態ではあまり望みどおりに細く切ることはできないかもしれない。それほど痛むのであれば病院に行けばいいものを、医者嫌いと来ているから、どうにか日にち薬で治してしまおうと考えている。であるのに、日ごとに痛みがひどくなるのはなぜだろう。年齢による神経痛のようなものかとふと思ったりもするが、そんな病気がそろそろ出て来ても不思議でない年齢か。
 さて、今月も世間ではいろんな事件が続発して、切り絵の題材には不自由しないと言ってよいが、ジャーナリズムにいちいち反応して切り絵を作るということもあまり面白いことばかりとは言えない。切り絵に添える文章に何らかのイデオロギーに強く染まったことを盛るということも本当はあまり粋なことでもないと気もしている。何か発言すれば必ず反論があるし、それがいやだというのではないが、曲解やあえての誤解に対面すると、文字を連ねることの限界も感ずる。どんなことでも文字で表現できないことはないというのは真実かどうか。おそらく真実ではないという方に加担したい。ここに1枚の絵があるとして、それは見えるものであり、100万語を費やしても目で見えるのと同じように正確には脳裏に思い描くことはできない。だが逆に絵は見ればそれですべてが見えるというものでもない。何らかの言葉の助けがあって初めて見えて来るものもある。毎月の切り絵に15文字×15行の文章を添えるのはそんな思いがあるからで、どんな発想から題名を決めているか、何を思って作品を作ったのかといったことを多少なりとも詳しく伝えたい。つまり、題名と切り絵と文章は三位一体で、どの要素も気に入らないと発表はしたくないものなのだ。毎月たいして誰も待ってはいないことはわかっているが、他人にどう思われようとも自分が完全にすべてをコントロールして発表できる自由の気分は何にも代えがたい充実感をもたらす。作者が作品のあらゆることを100パーセント熟知しているとして、どれほど熱心な研究家でもせいぜい10パーセントしか知り得ないというのがおそらく現実だが、そんなことからすれば人目にほとんど触れずに作り続けられる筆者の切り絵など、込めた思いの1パーセントも人に伝われば本望というべきであるかもしれない。しかし、こんな話はまた誤解を招くだろう。10パーセント知るとはどういうことかと言われそうだ。知るものではなくて感じるものであり、感じさえすればそれで事足りるのではないかという意見だ。だが、感じるにもいろいろと種類や段階がある。絵画といったものが、知識が何もなくて感じ尽くすることができるかどうかは大いに疑問な場合がある。
 2、3日前だが、TVの深夜放送でゲイリー・オールドマン主演のベートヴェンの映画をやっていた。原題は『IMMORTAL BELOVED』だったと思う。録画して観たが、この映画はちょうど10年前に制作されたもので、その当時から観たいと思っていたのに観る機会がなかった。オールドマンはこの映画の後、あの『 LEON』で憎憎しげな刑事役で出演して一気に存在を知られるようになったが、このベートヴェン役は予想を越えた適役で、ひさしぶりにいい映画を観た気分になった。ベートヴェンに関してわかっている事実をつなぎ合わせ、一方でわからないことは推理を働かせて観る者に納得させるストーリーとして織り混ぜた内容だが、随所の名曲はそうでしかあり得ない選択がなされていて、ベートヴェンの音楽を知る者にとってはことさら楽しめるようにしてあった。ベートヴェンの音楽を知らない人が観ても楽しめる映画だが、もし音楽を知っているならばさらに楽しい度合いが増すに違いない。それはさておき、映画の中でクロイツェルト・ソナタのある箇所をどういう思いで作曲したかをベートヴェンが明かすシーンがある。それは、女に会いに行く馬車がぬかるみにはまって動けず、気持ちが焦るという思いを表現したというのであったが、これはベートーヴェンをただただ神様として考えているような人には不謹慎だとされてしまう解釈かもしれない。だが、輝ける芸術作品も案外と作家個人のわざわざ人の口外するほどのこともないような個人的なちょっとした思いが根底にあってのことというのはよくあるに違いない。逆に言えば、ほんちょっとしたきっかけが元になってそこから不滅の作品を作り上げて行くところが素晴らしい才能なのだ。もちろんそのちょっとしたきっかけだけが名作の核というのではない。それはあくまでもきっかけであって、作品となってからではそれはもはや作者自身しか知らないし、また他人が知っても別にどおってことはないといった程度のものだ。ただし先の女に会う云々は決してどおってことはないものではない。それは芸術の大きなきっかけであり、そういった異性への恋心を離れて作られたものはあまり人を感動はさせないだろう。その意味で映画がそうした推理を働かせてベートーヴェンに語らせているのは実に正しいベートヴェン像を伝えている。映画の最後近くで第9交響曲の初演の様子が描写された。ベートヴェンの生涯を描くとして、これは欠かせないシーンだろう。ところがこの映画ではまた一級の推理を盛り込み、ベートーヴェンがどのような情景を思い描いて作曲したかを幻想的に表現していた。それはこの映画の中でいくつかある忘れがたいシーンの中でも最も印象深いひとつで、今後第9交響曲をこの下りを聴くと映画のその場面が浮かぶのではないかと思うほどだ。映画で残念であったのはみんなが英語をしゃべっていることで、これがドイツ語ならばもっと雰囲気が出たであろう。ベートーヴェンの音楽はドイツ語を話す世界から生まれ得たもので、もしベートーヴェンがイギリスに生まれていたならば、あのような音楽は書けなかったに違いない。
 ここまで書いて来てなかなか本論に入れないもどかしさがある。そこで強引につなげることにする。ベートーヴェンが死んだのは1827年だが、それから30年ほどしてロヴィス・コリントが生まれている。コリントは日本ではあまりよく知られている画家とは言えない。1990年頃に神戸で30点ほどまとまって展示されたことがあるが、あまり大作は来ていなかったのでこの画家の魅力を充分に味わうという機会ではなかった。ドイツの印象派の大家としての評価が一般的だが、印象派ならば当然フランスが本場なので、印象派ファンにコリントは興味を抱かれにくい。だがコリントは印象派というやわな表現はふさわしくない。晩年になるほど画風は最先端のものを吸収して荒々しくなるが、これが魅力だ。1925年に没するが、この20年代半ばまで活躍したことがコリントの作風を表現主義的にどんどん荒々しくした原因でもあろう。第1次世界大戦を経験した世代の画家が必ずしも戦争をそのまま題材とした作品を描く必要はなかったことは言うまでもないが、従軍の経験からリアルな戦争の惨禍を描いた同じドイツのオットー・ディックスとは違って、あまり詳しくは知らないが、コリントにはそうした作品はほとんどなく、もっと比喩的、暗示的な題材を選んだ感がある。ディックスにも比喩的、暗示的な作品はあるのだが、迫力の点ではコリントの方が圧倒的なものがあるように思える。それは体格の差も案外と大きな原因かと、半ば冗談に考えるが、ディックスとは違った油絵具本来の触感をよく伝える独特の力強さのある筆さばきがコリントにはある。とはいえ20年代のコリントの名作を実際には観たことがないのでよくはわからない。それに生きた時代が顕著な絵画運動への前哨的、橋わたし的な時期に相当していて、ちょっと損をしている。この文章の左欄上部に掲げた作品はコリントの22年の『赤いキリスト』(129×108センチ)で、これはミュンヘンの美術館にある代表作のひとつだが、かつてこの作品を画集で見た時、この1点の絵画を観るためにドイツに行きたいと思ったほどだ。インターネットで調べてみたが、この作品の画像を掲載しているサイトがドイツにも見当たらなかったので、ここでは週間朝日百科『世界の美術』の7ー30のページにある図版からスキャンした(クリックすると拡大する)。こうした複写掲載行為が違法かどうかわからないので不安だが、いちおうは図版左側についていたクレジットはそのまま一緒にスキャンして掲げておいた(字が小さいので判読できないが)。7ー31にはもう1点コリントの作品が掲げられているが、それも同じくキリストを描いた『この人を見よ』だ。これはとても有名なもので、インターネットでも簡単に画像が出て来るのでここでは掲げない。
さて、ここで明らかになったが、筆者が切り絵の『カラヴァッジョの薔薇花序』を作った時、コリントのこの2作の絵画が強く念頭にあった。それなのになぜ15×15のどこにも書かず、時代も国も違うカラヴァッジョになったかと言えば、カラヴァッジョもけっこう血のにおいがしているうえ、薔薇の花序に語呂合わせするにはカラヴァッジョしかない。ま、駄洒落ユーモア優先ということだ。それにしても『赤いキリスト』はまじまじと見つめさせる魔力が潜んでいる。このような激しい絵を最晩年に描くことになったコリントの心の中にはどのような嵐が吹いていたのかを想像する。槍で突かれて血を流すキリストの背後に腰を抜かすマリアが描かれているが、そのマリアの叫びと悲しさをも想う。このマリアの姿はイラクで人質になった日本人3人が3日後に焼き殺されると発表がなされた時、日本国内で政府に悲痛な叫びを放った身内を思い起こさせる。その身内の姿に不快感を表わした人々はキリストの処刑に賛成したユダヤ人たちにも思えて来るとしたら言い過ぎか。いずれにしても1点の絵画が時代をくぐってさまざまな読み解きがなされ続けるのはいいことで、コリントが考えたのもそこで、直接に時代の不穏な空気を描くのではなく、別の時代の悲劇に置き換えて人間の変らぬ悲しみを見つめて表現したかったのだろう。それは祈りの思いからでもある。そう言えば先のベートーヴェンの映画の中でもナポレオンの軍隊がウィーンにやって来て破壊をやる場面があった。それは戦争ではお馴染みの光景で、若い女は陵辱され、財宝は奪われる。同じことはコリントの時代でもあったし、今でも起きているし、今後も起こり続ける。
 もうそろそろ梅雨入りが近いが、今日の昼、雨傘をさして郵便局に歩いて行く時、まるで『カラヴァッジョの薔薇花序』そのままの赤い薔薇が咲いていた。後でデジカメを持って来て撮影し、このページに掲げようと考えたが、デジカメの電池の寿命が切れていて、充電しても反応がないことを思い出した。その近くには同じく赤いゼラニウムがたくさん咲いている庭があり、またざくろの赤い花も満開であった。そう言えばかつて『赤い花』のシリーズで作品を作ったことがある。人間も内に赤い血が流れる花のような存在で、いつかははらりと落ちる。最後になったが、このページの作品は『カラヴァッジョの薔薇花序』をアニメーション下できないかとずっと思っていたところ、以前インストールしたことのある雑誌付録のサンプル版のアニメーション・ソフトを思い出した。それは30日経てば自動的に期限が尽きて使用できなくなるのだが、2か月ほど前にパソコンが壊れてOSを再インストールしたので、そのCD−ROMがもう一度インストールできるかもしれないと考えて実行すると、予想どおりにうまく行った。それが20日前のことだ。それからすぐにそのソフトを利用して作ったのがここで掲げるアニメで、動く部分はみな切り絵ではなく、画面上でマウスで1コマずつ描いたものだ。元来『カラヴァッジョの薔薇花序』はかなり不気味な作品なので、アニメではそれがさらに何倍にも膨れ上がった。わずかに左右対称を崩しているがこれはあえてそうした。また動く各部はコマ数や循環の秒数がみな異なっているので、全体としてはかなり複雑な動きをするものとなっている。計算してみないとわからないが、1分以上経たないと厳密には全体として同じ画像が出現しないと思う。各部がてんでばらばらに循環して動くところが不気味でもあり、また題名のポリリズムの理由にもなっている。『この人を見よ』とはもちろんキリストを指して言う言葉だが、そもそも『カラヴァッジョの薔薇花序』はその題名にするつもりもあった。それは結局15×15の文章の最後に置くことにした。ついでながら『薔薇花序のバカ裸女』の泣く女はマグダラのマリアという思いがあった。このアニメは1、2日で完成したが、ちょうどこれを作っている時、TVでは人質になっていたアメリカの青年がオレンジ色の服を着せられて首を切り落とされたというニュースを盛んに伝えていた。両親の悲しむ姿はまさにコリントの『赤いキリスト』におけるマリアの姿さながらであった。火あぶりも惨い話だが、生きたまま首を切り、その映像をインターネットで公開するとは何という時代になったことか。あえて書いておくが、そのニュースを知って作ったのではない。作り初めてからそのニュースが伝わった。そのためによけいに不気味さが倍加開花した。あまりに不気味なので、また切り絵ではないので発表しないでおこうかとも思ったが、今月は番外編的に日記風の長文を添えてこの1点をとりあえず掲げる。そうそう思い出した。『パッション』というアメリカ映画は前評判からして面白そうだが、コリントの『赤いキリスト』のような迫力があるかどうか。コンピュータ・グラフィックスとわかってしまっているリアルな映像はもはや誰もさほど驚かなくなっているしね。(5月31日)
 追記:その後丸1日経ち、さきほど日本のサイトで調べるとロヴィス・コリントの『赤いキリスト』の画像がすぐに見つかりました。こちらです。
 追記2:その後上記のサイトはくなりました。代わりにフランスでいいのが見つかりました。ここです。(2005年1月6日)







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