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第  回 個展はがき

1987年10月4日〜11日 京都市中京区のPOOL’S COURT2階

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やっとこさ
3段落目の
始まりマニ
さあ、上がっておいで

(図1)2階へ通ずる階段



(図2)



(図3)



(図4)



(図5)


じめての個展は地元京都市内で開きたいと考えていた。市内には美術館や画廊がたくさ んあり、京都に住んでからはそれまで以上にそうした場所を毎週のように回るのが習慣に なったが、一方で知人の画家たちの個展案内はがきが届くたびに自分もいつかはという気 持ちが高まった。81年は毎年初夏に京都で開催されていた日本全国規模の新人染織展で 大賞をもらい、その後同公募展で何度か招待出品用の作品を作り、また他の公募展にも出 品し始めるなか、東京の団体が主催する賞金つきのキモノの公募展でも大賞となったこと もあって、87年頃には個展を開けるだけのキモノ作品が手元にたまっていた。しかしキ モノの個展など、人間国宝は別として、それまでに観たことはなかったから、自分でもキ モノの展示は奇異なことに思え、なかなか適当な会場が思いつかなかった。有名画廊では 芸大出身者しか、あるいはそうした人の紹介がないと貸さないが、そんな高飛車なところ はこっちからお断りという気分であるし、そうした知名度の高い画廊は借り手がずっと先 まで詰まっていることもあって、正味5日程度の展示である1週間契約で、月収に匹敵す るほどの費用がかかる。そもそもキモノを展示して売れるはずもないことがよくわかって いたから、それはかなり痛い出費だ。個展を開くことは会場費や運搬費、衣桁の借り賃な ど、出費のみが嵩むことであり、5歳になる子どもがひとりいて、毎月住宅ロ−ンの支払 いを抱える夫婦共働きの身分では経済的な現実を常に忘れることはできず、なるべく出費 は抑えたい。また会場費はいいとしても、一般的な画廊はキモノ展示にはもともと不向き にできていて、額に入った絵画と同じようにキモノを鑑賞してはもらえない。どうせ鑑賞 者を戸惑わせるのであれば、もっと予想外の場所にした方がいいと考えた。
 会場はひょんなことで見つかった。それは無料で週に一度配達される住宅新聞の文化欄 に出ていた記事がきっかけであった。そう言えば、嵐山に引っ越したのもそうした新聞に 出ていた不動産広告に目を留めたことによる。それはさておき、目に留めた記事には、市 内の繁華な場所に若い女性向きのブティックがオ−プンし、その2階は何もテナントが入 っておらず、下のブティックで10万円の品物を買えば1週間を無料で自由に使用できる とあった。早速見に行った。するとまだ誰も使用していないとのことで、約5メ−トル× 15メ−トルの長方形のワン・フロア−の奥はバ−・カウンタ−がついていて、天井は高 くて自然光がたっぷりと入る構造になっていた。壁はコンクリ−トの打ち放しではなく、 ごくうすい灰色のビニ−ル素材が貼ってある。嬉しいことにBGMを流せるステレオ装置 もついていて、ちょっとした私的喫茶店にもなる感じがあり、いっぺんに気に入った。応 対してくれたオ−ナ−らしき人物は若手の落語家で、話はすぐにまとまり、数週間ほど後 に個展を開くことになった。通常の個展会場としては全く失格かもしれないが、階下がブ ティックであるので、その上でキモノを展示するというのは理屈に合っている。どうせ売 れないのがわかっているのであれば、自分が気に入った空間で自作を並べるというのが理 想であろう。10万分の洋服の買い物は筆者の妹と妻の妹が負ってくれた。8日間の展示 期間中に訪れた人々のほぼ正確な名前や人数は控えてあるが、遠方から親友が駆けつけ、 また知り合いになっていたDJの若宮テイ子さんが来てくれるなど、自分にとって人生に 区切りとなるようなお祭りとなった。予想どおりに来場者は決して多くはなかったが、そ れでも現在に至るまでつき合いをしている人々が何人もあるし、話好きな筆者は来てくれ た人々と長く話込むので退屈はしなかった。また来場が少し途切れても、用意していた1 0時間分ほどのカセット・テ−プに録音したストラヴィンスキ−のBGMを聴いていれば よかった。それらのテ−プはその後の個展で会場が許せば使用し続け、現在も所有してい る。
 個展はがきにはたくさんの作品を小さく並べることを考えた。しかし15センチ×10 センチの面積では縦横を3分割するのが限度で、中央に文字情報を入れると、その周囲に 8点しか並べられない。個展のタイトルは『大山甲日展』とすれば日展の文字が入って意 味がよくわからなりそうだし、『大山甲日個展』では何を展示するかわからず、また名前 だけで個展を提示するほど有名ではない。そこで内容を正直に示す『大山甲日友禅展』を 考えたが、これでは範囲が狭まった印象があるので『大山甲日染色展』に決めた。その当 時毎月1回は会っていた大阪の友人のグラフィック・デザイナ−が、ダイレクト・メ−ル によって1000枚15000円でカラ−印刷してくれるところを知っていて、写植やそ の貼り込み、そして発注をしてくれた。別の友人から借りた一眼レフのカメラでキモノの 部分を撮影し、写真のトリミングや配置に苦心し、どうにか8枚の写真を貼りつけた印刷 用の版下ができた。また、あえて8枚は必ずしも個展出品作ではないようにしたが、この ことはその後の個展でも同様だ。完成したはがきの色はかなり原色っぽいので気になった が、それでも嬉しさが勝った。せっかくカラ−で印刷であるし、個展はがきが筆者の一種 の作品のミニ・カタログとなればという思いから、この第1回個展と同じデザインで10 回目の個展はがきまで作ろうと決心した。たかが個展はがきだが、そうした小さなものに こだわって一本の筋は通したい。それはこうしたホ−ムペ−ジのデザインでも同じことだ 。ごく小さなものをデザインするにもその人の思いの深さが宿る。1000枚のはがきは 友人知人に送付しただけでは半分以上が残ったが、その後の個展で芳名帳脇に置いている 間にいつのまにかなくなった。ホ−ムペ−ジ用に各個展から人の写っていないものを5枚 ずつ選んだが、必ずしも5枚で出品作全部を表示しいてはいない。また、どれもデジタル ・カメラで撮影したものではなくピントも甘い。そしてスキャナ−で撮った際に画像はさ らに劣化している。
 さて、簡単に左側の写真の説明をしておこう。図1から図5までは会場の壁面を反時計 回りに示している。まず図1。ブティックの2階へと通ずる階段だ。ブティック内部では なく、ブティックの端にあって街路に面している。階段上の踊り場左に全面透明な扉があ って、内部のキモノの展示が見えるようになっていた。階段上突き当たりに見えるのは、 木綿にタペストリ−風に染めた作品(約90センチ×250センチ)で、このヴァリエ− ション(約140センチ角)は会場内部のカウタ−背後にかけた。キモノだけの展示では 面白くないので、このふたつの作品は会場を決めてからすぐに寸法を計ってロ−ケツで染 めた。図2は会場に入って右手の隅の2点。右は公募展出品処女作『青と緑と』。左は公 募展には出品していないが、染料ではなく、藍や墨、それに胡粉といった顔料を中心し使 用した梅文様の訪問着で、今は妹が着用している。衣桁やキモノ下の緑の毛氈は専門業者 からレンタルした。京都にはそういうキモノ展示用品を専門に貸す業者がある。ここに掲 げる5点の写真には写っていないが、会場中央には7、8人は座れる床几を置いて、その 上には緋毛氈をかぶせた。図3は右が第6回の新人染織展で100万円の賞金つきの大賞 受賞作『5月の風と雲』、左がその翌年の同公募展への招待出品作『La Merの詩に よる』。図4の右はその翌年の同公募展へ招待出品した2点のうちの1点『遊蝶花に蝶遊 ぶ、習作2』、中央は第10回目の同展への招待出品作『アルマ・幻炎』、左は第9回目 の同展への招待出品作『遊蝶花に蝶遊ぶ』。図4と図5で写る壁面の間は長方形の会場の 奥にバ−・カウンタ−が占める一辺となっていて、そこには前述の140センチ角のタペ ストリ−ともう1点キモノを展示したが、ここには掲げていない。図5の右はわが家から 徒歩2、3分にある嵐山公園の桜の老木の写生を元にして作った。これは評判がよくてそ の後注文を受けて、地色を赤や緑に変えたものを2点作った。左は白と黒を片身変わりに デザインしたもので、遊蝶花(菫やパンジ−のこと)に因むシリ−ズものの1点だ。

  第2回個展 1991年
  第3回個展 1993年
  第4回個展 1995年
  第5回個展 1996年
  第6回個展 1996年
  第7回個展 1999年


上からは柔らかい光が

(この内部は改装されて現存せず)


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