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第  回 個展はがき

1996年11月12日〜17日 大阪府高槻市の城北ギャラリー

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外から丸見えだね〜

(図1)



(図2)



(図3)



(図4)



(図5)


んだんと個展というものが慣れて来て、前回から5か月足らずでまた開催することにな った。確かこの年の3月だったと思うが、妻の実家がある高槻市に法事で訪れた時、阪急 の高槻駅前のすぐ近くに新しく画廊がオ−プンしたばかりであることを知った。その後改 めて画廊を訪れ、個展の開催を契約したが、5月の枚方での個展がすでに迫っていたので 、期日を秋にした。しかし1年に2回の個展となるため、双方で出品作の全部を変えるこ とには無理があり、結果として屏風1点と掛軸1点はどちらの個展にも並べた。高槻市と 枚方市は淀川を挟んで位置する似たような大阪市の衛生都市と言ってよいが、文化的には 枚方の方が上と感じる。高槻の駅前にはそれまで画廊がなかったので、この新しい画廊が それなりに地域に根ついて行くかと思っていたところ、結局その後は編み物のグル−プ展 などがよく開催されていたようで、つい先頃(2004年3月)その前を通りかかったと ころ、内部を改装して新たにテナントが入っていた。つまり丸8年で閉廊となった。かつ て同地での商売を辞めて画廊主となった老齢の男性と面談した時、「こういう画廊を作っ たことでわたしの子どもや孫たちも末長く喜んでくれるでしょう」とにこやかに語ってい たのが印象的だった。画廊主は亡くなったのかもしれないが、きっと貸し画廊経営は厳し いものであったろう。周りにパチンコ屋や飲み屋、客引きの激しい風俗店がひしめいてい るような状態では、乗降客の多い大きな駅がいくらすぐ近くにあっても、画廊はあたり全 体の歓楽ム−ドに陥落したような雰囲気にならざるを得ない。高槻市内の一部にも第1回 個展を開いた池田市に漂う落ちついて上品な山手の感じがなくはないが、そうした場所は 駅から遠く、画廊があったとしてもはやることはなく、やはり経営が成り立たないはずだ 。元来大阪は文化を大切にしない土地柄だと言われる。それはたとえばバブル期にその気 になれば新しい美術館の2、3個は建てることもできたはずなのにそれは実現せず、また 建設予定されていた近代美術館の開館も大幅に遅れたままになって現在に至っていること からもわかると言ってよい。筆者は大阪市内出身であるにもかかわらず、まだ同市内で個 展を開いたことはないし、開きたいと思わせる場所も今のところはない。大阪市内がそう であるならば、ベッドタウンである高槻市もほとんど似たものであることは簡単に予想が ついていたが、高槻は自宅から電車で30分ほどであり、駅前であればなおさら便利、し かも真新しい画廊となれば一度は個展をしてもいいかと考えた。
 1年に2回の個展であるので、2回で1回の濃さという気持ちが多少はあった。また前 回は依頼されての個展であったが、今回は身銭を切ってのものであるので、前回より力を 込めたものにした。いつものごとくまず売れることはないはずなので、スカ−フやネクタ イといった小物は用意する気はなかった。ただし、前回個展を開いた画廊主は普段は額縁 を別の場所で作っていて、その中にはオリジナルのかなり形の変わったものがあったので 、それらを数点買い求め、その額に合わせた作品を2点染めて展示した。出品は屏風2点 、キモノ3点、掛軸5点、額もの4点、のれん1点であった。図1は画廊の前面を夜に撮 影したもので、内部が丸見えになっている。画廊の前の道はさほど広くはないが、駅前か ら枚方行きのバスが通り、人の往来は多い。しかし、画廊内部を見て興味を抱いて入って くる人は皆無に近いほどであった。美術館や博物館の入場料が仮にただであったとしても 、今まで以上に行きたいという人はさほど増えないというアンケ−ト結果が以前新聞に出 ていたことがあるが、公的美術館の経営が立ち行かなくなるところが出て来る一方、国立 のそうした施設が独立法人となって、自前で黒字を出す展覧会の企画をすることに追われ る状況となっている。大衆から遊離したものを単なる無駄と切り捨ててよいのかどうかの 議論は、大衆とは何か、またその大衆というものが単に今だけのことを考えていい存在な のかどうかといったことまで含めてなされなければならない気がするが、筆者の内心の呟 きなど蹴散らしてしまう勢いで、今はますます静かに語っている作品といったものは隅に 追いやられて目立たなくなって行くばかりのように思う。また、個展ではなく古典に興味 のある人は決して少なくないだろうが、そうした人は無名の人の個展の中からいつかは古 典になるものが生まれるということを見ようとはしないのではないだろうか。古典を讃え るのはいとも簡単でも、個展の中から良質のものを見抜くは眼力が必要だ。それは古典の 権威的な側面だけを妄信している人にはわからない。何だか苦い話ばかりにこてんこてん と舞い戻ってしまうが、こうして書いている筆者の脳裏には今ブリュ−ゲルの名画『イカ ロスの墜落』が浮かんでいる。なぜその絵画をここで持ち出したかの理由は書かないが、 そうした古典の話をあたりまえにできるようなホ−ムペ−ジにしたいつもりであることだ けは書いておく。
 図2から図5は内部に入って左手から時計回りに巡る様子を示す。まず図2右のキモノ はモミジの紅葉を表現したものだが、これは数年前に一度完成していたが、どうも気に入 らず、今回の個展が秋であることをも考えて、下部や袖に近景としてのモミジを加えた。 その作業は模様部をまず抜染したうえで、後から糸目を置いて模様部を染めた。こうした 作業は今までやったことがなかったが、ほぼ思いのとおりにできたので展示した。右は鉄 砲百合を題材にしたもので、同じモチ−フで屏風を3点作った後に染めた。図3左は春の 枚方での個展にも出品した。中央の四角い区画から順にチュ−リップの球根、若葉、そし て花をマンダラ風に配置していて、最も中央の赤と黄色に染め分けられた小さな区画は第 1回個展の図2の左端の炎を染めた屏風の図柄をそのまま縮小して引用している。右のの れんは麻地に五言絶句風に自作の言葉と筆跡で表現したもので、奥の部屋がお茶の湯を沸 かす場所になっていて、何かなくては間延びするのでのれんを染めることにした。図4は 図3と同じ方向を後方に引いて撮ったもので、左端の青い訪問着は花菖蒲をテ−マにして いる。右端の屏風はアイリスをモチ−フにしたもので、今回の個展ではのれんをはさんで 左側のチュ−リップの屏風とともに、メインとして展示したかったものだ。また色調も対 照的にちょうど補色関係にある。図5は向かい側の壁とは違って中央に柱の出っ張りがあ ったので、そこに特別の作品をっ展示する必要を感じた。それで作ったのがさきほどのの れんと同じ五言絶句風の漢字10文字を2行に分けて配置した掛軸だ。だが、のれんの筆 字のデザインとは異なり、ここでは象形文字とし、また配色は思い切って原色に近いもの にした。のれんが壁に穿たれた穴を覆うものであるのに対して、この掛軸は壁から飛び出 たところに吊り下げたものであり、両者は共通の何かを持っていながら、また全然違うも のであるべきと考えた。この掛軸の両側には2点ずつの全部同サイズの掛軸を展示したが 、これら4点は『春の遠近』と題したセット作で、表具裂も自分で染めた。これら4点が 中央の五言絶句の掛軸と意味上の関連を持たせていることは言うまでもない。左右2作ず つの掛軸の隣には額入りの作品を用意した。左は赤い木蓮で、写真には写っていないが、 右はそれと対になる白の木蓮を染めている。これら2点もまた対作品だが、次回の個展に も形を変えて展示することになる。木蓮の隣には少し空間があったので、菱形が縦に3つ 連なった形の変形額に紬地を用いて染めたものをかけた。一番上はチュ−リップの花がひ とつ、中央は葉の塊がふたつ、下は球根が3個という絵になっている。同じく写真には写 っていないが、右側の白い木蓮の額のさらに右側にも同じ寸法で同じ形の額に染めた別の 小さな作品が縦に3つ並んで入っている。こうした小さな形のものでも和紙で裏打ちを施 して生地に張りを持たせている。ある意味では掛軸や額を並べたこの壁面が今回の個展の 祭壇的な場所と言えるかもしれないが、それはのれんを挟んで両側に屏風が並ぶ面と関連 しているから、さほど大きくはない画廊内部全体がひとつの有機的な祭事空間と言うこと もできる。

  第1回個展 1987年
  第2回個展 1991年
  第3回個展 1993年
  第4回個展 1995年
  第5回個展 1996年
  第7回個展 1999年
1段落目の
終わりマニ

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