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第  回 個展はがき

1999年5月6日〜17日 京都市左京区のARS LOCUS(アーズ・ローカス)ギャラリー

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ザッパ・ファンたちと話しましたね

(図1)



(図2)



(図3)



(図4)



(図5)


っこう繁華な場所に出かけることが好きなのは、大阪市内の生まれ育ちでゆえと思うが 、嵐山から市内中心部に出るために同じ交通費を使うのであれば、用事を3つか4つ一度 にこなす予定を立ててあちこち順に回ることにしている。友禅は座ることで仕事がはかど るのであるから、外出が多いのは問題だが、蒸しの工程は専門の工場に持参せねばならず 、また図書館へ行ったり展覧会や個展を観るのは勉強にもなるため、外出が仕事にとって 無駄と考えてはならない。それに何日も部屋にこもって座り続けて仕事するのは運動不足 になって身体によくない。ところで、友禅の師に就いていた1年は、仕事中ずっと民放の ラジオが鳴っていた。その後別の工房に入って仕事の運営を一任された時、1日中ひとり でキモノの下絵を描きながらNHK−FMを聴いていた。そんな生活が何年も続いたため 、クラシック音楽を初めとしてあらゆる音楽に親しむことができたが、一方で文章を書く のがあまり苦にならない性格でもあり、あることがきっかけでついにはCDの解説書の執 筆依頼が91年10月から始まった。98年末にはそれらを中心にした本まで出すように なったが、この個展はその出版から5か月後に開いた。会場が見つかったのは音楽関係の 知人からであった。94年だったと思うが、新しくオ−プンした日仏会館で定期的の開催 された音楽の催し物のシリ−ズに通っていた時、毎回顔を合わせる若い男性がいた。出席 者は毎回数人程度であったので自然と話を交わすようになった。音大出ではないが、卒業 後一度も就職せずにフリ−でチェンバロを弾いているという。その後ドイツ文化センタ− に出かけた際にも出会ったことがあり、やがてお互いの住まいを行き合うほどに親しくな った。この知人が積極的に市内各地でミニ・コンサ−トを開いていて、ある日そんな話を あれこれ聞いている時、彼は最近使用した会場のある建物は1階が個展に使用できそうな 空間だと語った。それで早速その知人に頼み込み、窓口となってくれる担当の女性に面談 に行った。98年の半ばだったと思う。まだ新しい5階建てのビルで、2階に温水プ−ル があり、会員性のフィットネス・クラブや文化教室を経営していた。担当者の女性はとて も親切な人で、話はすぐにまとまった。枚方で個展した際のつながりで筆者はとある私設 音楽堂の存在を知ったが、今回の個展の前に同会場での知人のチェンバロ・コンサ−トの 実現を取り持ったから、彼とは会場の紹介に関してお互い五分五分の形となった。あちこ ち出かけることで知り合いができ、音楽が縁となって個展の実現にもつながるのであるか ら面白い。しかしこのいわば貸し画廊として使用できる場所も、2年ほど前に手紙が届い て、建物はそのままだが、運営体制を一新してもはや貸さない方針になったようだ。
 2年半ぶりの個展となったが、会場はバス通りに面しているうえ、大きな窓があるため 、外から内部は丸見えで、道行く人に覗き込んでもらうには打ってつけであった。この点 は前回と同様だが、通りがかりに興味を抱いた人が何人も訪れるなど、いろいろと思い出 深いことがあったことは雲泥の差であった。これをいちがいに地域における文化度の差と は言い切れないとしても、実感としてはそう言わざるを得ないものがある。音楽を流して もよいと言われたので、第1回個展時に作ったストラヴィンスキ−のカセットテ−プをウ ォ−クマンとその専用の同サイズの小さなスピ−カ−で再生した。会場は天井が高く、面 積も大きいので、小さな音でもよく響き、音楽と作品がよく似合っていると評判がよかっ た。そうしたよい空間ではあったが、中央付近には2階のプ−ルの水量を支えるために1 メ−トル四方ほどの太い柱があって、これがフロア全体をやや使いにくいものにしていた 。つまり、いつもの祭壇としたいような壁面を決めることが困難で、展示したものが全体 として散漫な印象になってしまいやすかった。壁面を全部使用することのほかに、目立つ 柱の周りにも作品を置く必要を感じてそうした。また、個展を開く際に、この建物に通う 会員への啓蒙を目的として、ワ−クショップのようなことをしてほしいと言われ、友禅染 の工程をスライドを使用して説明することにした。そのために早速作り始めた屏風『夏日 』(図2右)と、その完成後すぐに取りかかった振袖(図1左)の2点は各工程ごとに撮 影した。本ホ−ムペ−ジの『工程』の分野は、それらの画像を使用しながら、同屏風と同 振袖の各工程説明を書き下ろしたものだ。スライドを使用しての解説は個展終了後の夜に 上の階のホ−ルで行なったが、全くさびしい人の入りで、人集めの困難さを改めて痛感し た。展示風景や作品などを面談した女性や友人がデジタル・カメラで撮影してくれたのは 印象的で、この文章の少し右上にそのうちの1点を掲げておく。蛇足になるが、筆者がデ ジカメで初めて撮影したのは1990年の鶴見緑地で開催された花の万博の会場で無料で 貸し出ししてくれたものを使用してのことだ。その後どういうわけかデジカメが流行せず 、この個展時にはパソコンの普及と相まってデジカメが急速に使用され始めた。
 出品作は屏風6点、キモノ3点、額入りの作品が2点、のれんが1点で、図1から図5 の5枚には屏風2点と額作品は写っていない。写っていない屏風の1点は6曲の大きな横 長で、これは93年の第3回個展に出したアクリルの縦長の額に入れた4点セットの掛軸 風作品にもう2点、同じく赤い花の山茶花と紫木蓮を染めた作品を追加し、計6点を貼り 混ぜたものだ。これは懇意にしている表具屋が受注を聞き間違えて6曲の屏風を2点作っ てしまい、1点があまったので、好意に甘えて使わせてもらった。白い花を6点選び、同 じサイズの6曲屏風を作って一双の作品にしようと考えたが、まだそのままになっている 。写っていないもう1点の屏風は花菖蒲をテ−マに染めた観音開きの3枚折りだが、完全 に開き切れば正方形になる2枚折り屏風ばかりを作って来たので、98年頃からはもっと 背丈が低くて変形の屏風というものに関心が高まった。そのひとつのまとまった披露が今 回の個展であった。図1から図3までは時計回りに会場を巡る。まず図1は自動扉を入っ てすぐスロ−プを下り、その突き当たりの壁、最も窓側に近い場所を撮ったもので、紫地 に白の四君子模様を染めた振袖は注文によって作った。そのまま仕立てるのはもったいな いので、了解を得て個展に並べてから納品することにした。右にはわずかに屏風が写るが 、これは近所に珍しく咲く桃の木を写生して染めたものだ。図2は左にその桃の屏風が写 り、右に前述した『夏日』がある。ひまわりは何年も前から写生を重ねて来たが、作品に するのはこれが初めてであった。この屏風の右は部屋の角で、90度右を向いてすぐの場 所に先に述べた6曲屏風を置いた。図3はその6曲屏風のすぐ右隣に位置するキモノ2点 を写す。左は写生を元にした椿文様、右は抽象柄で、流水に小花文を染める。図4と図5 は中央の太い柱の周りの状況を示す。まず図4左は椿をテ−マにした観音開きの変形屏風 で、背後に白く写っているのが柱だ。観音開きの3枚折りは設置した場合に安定が少し悪 いが、中央面が左右面の倍幅なので、ふたつ折りとは全く違う構図が可能となり、また聖 なる雰囲気をかもすのにはつごうがいいように感じる。そうした聖なるものを表現しよう と考えて作ったのは図5の屏風にも当てはまる。この作品は前回の個展で額入りで展示し たものを左右に置き、中央にそれと同じ寸法で新たに染めたものを配置し、上部には別に 染めた二等辺三角形の生地を、また下部にも横長の別染めの生地をつないで全体を三連つ ながりの屏風とした。観音開きではなく、蝶番いは裏表どちらにも曲がるように表具屋に 仕立ててもらった。もちろん二等辺三角形や横長の別裂も表具時に所定の寸法にぴたりと 貼り合わせてもらう。こうした変形の屏風は表具屋といろいろ相談のうえ、可能かどうか を確認してから作る。表具の可能性をいろいろと知ると作品の新たな方向が見える。これ も同じ表具屋と長年のつき合いをして来ているからで、いくら自分で友禅の全工程を手が けるとはいえ、キモノの仕立ては専門の人に依頼せねばならず、屏風も表具という行為が なければ成立しないもので、あらゆる人の助けがあってこそ作家活動も続けられることを 忘れてはならない。

  第1回個展 1987年
  第2回個展 1991年
  第3回個展 1993年
  第4回個展 1995年
  第5回個展 1996年
  第6回個展 1996年


中からは明るい光が

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