●落款印章の楽観印象

にするホームページは自己表現の作品と言える。そのために顔となるトップ・ページに落款を入れることにした。上に捺した朱文方印は70年代末期に作った陶印で「大山甲日」、その下の全くの下手くそな白文だるま印は、ホームページを作りを始めた2004年2月、手元に転がっていた消しゴムを利用して10数分で作った。白川静の分厚い字典を頼りに文字の契文や金文を調べ、それをもとに「楽観印象」の4文字を彫った。落款印章に引っかけた駄洒落だが、別の理由もある。
 80年代には日展に連なるとある公募展に屏風作品の出品を続けていた。筆者の技法の手描き友禅はその団体ではずっと唯一の出品であり続けたこともあって、審査員の先生たちは技法的なことはほとんどよくわからない。もちろん技法がどうであれ、訴える力こそが大切だが、たとえばクラシック音楽しか聴かない者はロック音楽の良質の部分がわからなかったりするし、その反対にロックしか聴かない者はクラシックなど退屈だと思いがちなように、技法差による作品の表面的な様相は前もって観る人に何らかの先入観を植えつけることがしばしばある。ましてやある特定の技法にこだわって長年作品づくりをしている人は自分の技法こそが一番という思いで凝り固まっていることが多く、自分にとって異質な技法で作られたものは排除しがちとなる。
 先の公募展では作品出品時に審査員級の先生たちが寸評を下すのだが、ある時こう言われた。「もっと諸先生方の作品を見習って勉強に励んでください」。筆者の作品が異質であったためにそうした意見が出たのか、あるいはもっと努力せよという月並みな評価であったのかもしれない。しかし、独創を旨とするそうした創作の場で大事なことは、どうやら先生方の作品を学んでそれ風に作るらしいことがわかった。出品者はみな同じ技法で似たモチーフばかりで作るので、どの作品も同じように見える。それでも我慢しながら毎年出品し続けたが、受賞はなく、入選さえも2回に1回の割合であった。一方で趣味で染色をしているおばさんの作品が受賞する。それはもちろん悪いことではない。染色歴2、3年の人の作品がその10倍以上の年季の入ったプロの作品より芸術性が高いことはいくらでもあるだろうからだ。その後ある先生にこう言われたこともある。「芸術は理屈ではなくて精神性だよ」。それは正しいだろう。だが、どんな作品にも必ず作者のそれなりの精神性はある。それに誰がどう優劣を判断し得るだろうか。そしてほかの技術をよく知らない同じ先生が今度はまたこう言う。「精神性を言ってもだね、技術がなくては芸術にはなり得ないよ」。そしてまたある日はこうだ。「やはりね、芸術理論というか、そういったものがないと駄目だよ」。その芸術理論とは先に否定した理屈ではなかったのか。
 その公募団体への最後の出品の寸評会だったが、筆者の作品を前にして先生のひとりがこう言った。「君(の作品)は呑気だねえ」。絶句した。どういう意味ですかと問えばよかったが、それが悪意から出た言葉であることはその時の雰囲気で確実であったし、口応えしたと見なされて、さらにひどい言葉が出るのは目に見えていた。1点の屏風作品を仕事返上の無収入状態で2、3か月要して作ることが呑気というのは、ある意味ではよく言い当てている。今時そんな悠長でいられるのはよほどの資産家か、あるいは単なる暇があり過ぎる馬鹿のどちらかだ。だが、馬鹿としか思えない仕事でしか成就されないこともある。時間をかければかけるほどいい仕事ができるとの保証は芸術にはない。だが逆に2、3日で屏風をそそくさと染めてしまえるからより芸術的であることのも言い切れない。むしろ工芸という分野ではそれは荒っぽさのみが目立つ作品となるのが相場だ。呑気の言葉はその後も心に刺さっている。そして、そう言った先生は先頃死んだ。
 呑気は楽天的、楽観的だ。せちがらい世の中、どこかそうでなければ身が持たない。それで「楽観印象」の落款印章を消しゴムで作った。陶印の「大山甲日」はごくたまに使用するが、もっぱら落款は糸目で置いて染め抜くことにしている。その画数が少ないので、筆者の落款の贋物はいとも簡単に作り得るはずだが、そもそも染色品は芸術でも最低の地位にあると思われている分野でもあるし、無名の筆者の作品を模倣する人は絶対にないから、そういった心配をするには当たらない。つまり「楽観印象」でよいのだ。