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 二曲屏風『夏日』

●2 写生

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(図1)描きためたスケッチから
使えそうな形のものを選ぶ。



(図2)写生した正面向きのひまわり。



(図3)横向きのものも使う。


風は部屋の調度品としての役割を本来持つが、その折れ曲がった無地の各表面にひとつ の絵を鑑賞目的に描くことは出来るし、実際そのようにして屏風は日本の美術の発展に寄 与して来た。現在の欧米式の生活が一般化した事情からすれば、もはや屏風は時代遅れの 顧みられることのない家具のひとつになったが、それでも個人の趣味として、屏風を室内 に置くなりしてインテリアとして利用することは相変わらず充分可能であるし、今後もそ れはなくなることはないと思える。屏風という言葉は英語に翻訳出来ず、もっぱら『パネ ル』といった言葉でそれを説明表現しているのが現状だが、そのことは形のうえでは西洋 絵画、すなわち平面作品と同列に置くという現在の公募展などで見られる姿勢から出てい る。日展の工芸部の染色では、ほとんどの作品が2枚折り屏風という形で出品されるのが 伝統のようになっており、そのことを見ると現在もなお絵画的屏風は絶え間なく生産され 続けていることになる。日展などの公募展では作品の大きさ制限があって、屏風作品では 蝶番を目いっぱい平らに広げた形で測定して、最大でおおよそ縦横とも180cm以内と いう場合がほとんどだ。これは日本画や油絵の大きさ制限にならったものだ。そして公募 展ではこの作品寸法の制限ぎりぎりまでの大きさで作品を制作する作家が多いが、これは 大きい作品ほど目立つし、描画の技量を示すのにはつごうがよいことによる。もっと小さ い、あるいは変形屏風もあってよいはずだが、そうした形にこだわるよりも、絵本来とし ての表現に力を入れるべきというのが、日展などの公募展での屏風作品の特徴となってい る。このため、自由な絵画的表現が可能な染色屏風も、実は形が決まっているキモノとほ とんど形という点ではもはや同じ固定化をしていると考えてよい。
 染色屏風におけるこの絵としての表現は、筆と墨で水墨画のように一気に描くようなも のではない。現代の化学染料は江戸期のものとは全く異なって、筆に染料をつけてそのま ま生地上に水墨画風に描き染めることが可能だが、そうした表現方法は染色では下位のも の、あるいは邪道のようにみなされ、まず公募展に出品しても入選はしない。これは考え れば不思議なことだが、そうした描き染めならば何もわざわざ染料と布地を使って表現す るまでもなく、昔からあるような紙に顔料という方法で充分であるということを考えれば 理解しやすい。つまり、染色で表現するからには染色ならではの、それだけでしか表現で きないような特徴を最大限に生かした表現であってこそ、それが芸術的であるという考え が支配的なのだ。そうではなくて、どういう技術や技法によろうとも、絵として表現され たものが結果的に芸術的であるならば、筆と染料で直接生地に絵画のように描いたもので あってもかまわないではないかという反論が必ずあるはずだが、そうした化学染料ならで はで可能になった新しい(そして絵画では昔からあたりまえの)技法は、厳然と存在する 染色の歴史を無視したものでもあり、染色作品の本道とは呼べないものされる。そのため 化学染料という絵具とほとんど同じように色合わせができてそのまま筆で塗りつけること にできる便利なものがあるというのに、相変わらず化学染料がなかった当時の防染方法を 使って表現することが今なお染色ということになっている。これは便利なものがあるのに 不便をわざわざ買って出ているような倒錯した方法とも言えるかもしれないが、筆と顔料 、あるいは油絵具でもいいが、そのようにして描いた絵と、防染という過程を経た染色作 品とでは、完成した絵の味わいが全然違い、防染によって得られる表現は他の方法では望 み得ない作品の特長を持つことを知る必要がある。この特長のために、いかに便利な化学 染料が作られても、防染の方法による染色は今後もなくなることがない。
 染色は防染という、いわば不自由な足枷と言ってもよい工程を、表現されたものに逆に 有利に働くように転換させる表現方法であり、そこが工芸として通常の絵画とは一線を画 して昔から呼ばれるゆえんと言える。染色で絵を表現するという場合、キモノでは歴史的 に見て、織物にあるような連続パターン模様から絵画に近い表現をどんどん可能にするよ うに進んで来て、ついに友禅染めが現われた。それは布上に防染の糸目を細く細かく引く ことで、顔料で描く従来の絵画に匹敵するような微細で緻密な表現を可能にしたものだが 、それまでの染色技法では絵画のような自由で細かい極彩色の絵の表現に限界があったか ら、それを可能なように防染糊と染料の扱いがどんどんと進展し、ついに友禅が生まれた のは当然の結果とも言える。その延長上に化学染料が出現し、前述のようにもはや糸目を 使わなくても絵と同じ表現が布上に可能になってはいるが、この糸目の白抜きの仕上がり 線こそが長年の間の友禅の特長でもあったということで、それを美しさとしてそのまま重 要視しているのが現在の友禅染だ。
 ところで、友禅とは違って日本には別の染色方法の歴史がいくつかある。その中で日展 で主流となっているのは、型染とローケツ染のふたつだ。前者は型紙を切り、糊をヘラの 使用で布上に置くという点で沖縄の紅型とかなり密接した関係がある。またキモノの小紋 も同じ方法で染め出されることを考えれば、型染は織物的な連続模様を染め出す発想から 出発していることがわかるし、実際その特徴を活用して屏風作品を作る人は今も少なくな い。しかし、型染の特徴は連続模様的ということのみにあるのではない。糊防染した独特 の仕上がりにこそ着目して、屏風全体をひとつの絵として型染技法で染める作家も当然い る。また糊ではなくてローを使用した型染作品も当然予想出来るし、実際にその技法はし ばしば使用される。したがって型染が糊使用の作品だけと認識することは間違いだが、型 染では通常は糊を使用する場合が多いため、もっぱら糊型染は短縮されて型染と呼ばれ、 これが型使用の染色の代表的呼称となっている。ローケツ染は防染剤の名前で呼ぶ染色方 法であるので、型染とは本来は対峙され得ない用語使用だが、それはひとまず置くとして 、ローは筆につけて生地上に即座に付着させる必要があって、そのことで防染効果が完全 に得られるところに最大の特徴があると言ってよい染色方法であるから、ローケツ染から 連想される染色方法は、どちらかと言えば型染よりもっと自由な絵画表現ということにな る。とはいえ、熱湯同様に熱く溶けたローを生地上に素早く置いて防染する必要上、その ローを自在に自分が望む絵の輪郭にぴたりに付着させるためには熟練した技術を要する。 それは筆と絵の具で絵を描くのとは違ってもっと緊張感が強いられる行為であり、しかも 限りなく熟練しても、当然のことながら、ローで置いた際の線はやはりローでしかないよ うな特徴を見せる。そこにローケツ染の持ち味を見出してそれを積極的な表現手段とした り、あるいはローケツ染ならではの色の混じりや染め重ね効果に着眼しつつ、その足枷的 な防染を逆に強い表現に昇華するという、型染と同じところに主眼を置くという考えが、 ローケツで屏風作品を染める作家の最大の特徴となっている。
 染色は布の種類も麻や木綿、絹と多く、しかもそれぞれでまた無数とも言えるヴァラエ ティがあり、そのうえ防染の方法がさまざまで、またその防染剤が使い方よって自在に仕 上がりの味わいを変える。一方で染料も種類が多く、それに抜染剤の積極的な使用といっ たことによっても表現されるものが異なって来る。そのため筆と絵の具で表現する絵画と は違って、表現されたものが染色家同士でさえどのように染められたのか皆目わからない ことがままある。これが染色が絵画とは違っていささか闇に包まれた世界として認識され ている理由と考えることもできるが、それだけ多様な表現ができるものであるならば、む しろ染色の未来は今後にこそあると言える。ところが、どのような絵画的表現でも大切で あるのは、表現された絵の力であることは言うまでもない。
 作家によって考えは違うが、結局大事なのは絵画的表現の中に独自の個性があり、それ が自立しているかどうかだ。ところがここでややこしい問題が侵入する恐れがある。西洋 絵画の歴史においてさまざまな流派が勃興し、絶えず最先端の流派といったものが常に君 臨して世界の絵画界をリードしているとする考えだ。一方には日本には独自の絵画の歴史 もあって問題はさらにややこしくなる。そして、工芸というものがそうした純粋絵画を目 指すことはおこがましいという意見も出るであろう。ところが工芸家と呼ばれようが染色 家と呼ばれようが、筆とそして色を塗ることができるものを使って何かを表現する点にお いてはそうした純粋絵画の世界とは何ら変わらない行為であり、最先端の絵画の歴史を横 目にしろ睨みながら染色の作品づくりをするというのが自然な話だ。おそらく芸大美大の 染色科もそのようにしているはずだ。ところが、日本の伝統的な織物などには、そこに現 代の西洋抽象絵画と同じような形を表現したものがある。しかし、それはたまたまそうな っただけであり、織物をデザインした当時の人々に現代の抽象画家のような頭はなかった とみなすのは早計だろう。何でも現代に近いものほど昔のものよりも立派だと考えること は間違いであって、織物の連続模様をデザインした人の方が現代の著名を抽象画家よりも むしろもっと素晴らしい思考を経て自然の中から普遍的な絵模様を導いたと考えることも 可能だ。それがそうならないのは、ただここ数百年、西洋文化が世界中を覆い尽くして来 たからであって、本当に普遍とは呼べる保証がどこにもないものを普遍と信じているだけ の話とも言えるのではないか。つまり、絵としての表現は純粋絵画だけがずっと牛耳って 来て、それが常に頂点にあると考えること以外に、工芸ならではの独自の絵画表現の歴史 があるということだ。さてそう考えると、絵画に比べるとほとんどマイナーな存在に過ぎ ないかのような染色ではあっても、常に多くの新しい絵画世界の可能性が前に開かれてい ると言える。それは欧米の最先端の美術に組み込まれるようなことを望むのではなく、ま た日本の絵画の伝統の末端に連なるというものでもない。そしてまた染色世界の中で充足 すれば充分というのでもないような作品のあり方で、あらゆるものを飲み込みながら独自 に屹立している世界だ。そうした作品こそが現在の染色で最も望み得る正当な立場ではな いかと筆者は考える。
 さて、何にも影響されないでいきなり独自の作品が生まれるはずはない。必ず先立つ何 かを基本として学び、それに立脚しつつそれを絶えず革新するという行為の連続でしか独 創的なものは生まれ得ない。そこで染色が学ぶものは文様世界の伝統と、一方には純粋絵 画の歴史から垣間見える物の見方ということで、その両者がうまく拮抗し合ったところで 現在の染色ならではの作品が生まれると思う。伝統工芸の呼び名のもと、昔の文様そのま まの引用を再現なく繰り返すという工芸も当然存在するし、今後もそれはなくならないが 、そうしたものとは違うもっと個性的な作品を考えるのであれば、伝統文様の中に存する 一種の方法を習得して、それを独自の写生などを通じた描画能力の中で適応し、新しい文 様を生み出すというのがひとつの採るべき方策と言える。これは大変幅広いことであって 、個人の考えによって伝統的文様に限りなく近いものから写生に近いものまでさまざまで あると言える。また、あらゆる方策が試みられて来ているから、個人で開拓できる範囲も 考え方によってはごく狭いとも言えるし、逆にまだまだ広大にあるとも言え、誰がどうの ような方面の仕事に成果を多く発揮したかは今後もっと年月を経なければ見えて来ない問 題とも言える。筆者の作品もすっかりと自分のものにした独自な考えがあって、それにし たがってキモノや屏風を作り続けているとはとうてい言えず、1点毎に実験を繰り返して いるというのが正直なところだ。写生をそのまま使えば限りなく絵画的な作品になるが、 それでは面白くないし、かといって文様味を強調すればそれは絵画から離れたキモノにあ りがちのほとんど記号的な無味乾燥な屏風作品となってしまう。この絵でもなく、また記 号的文様でもないような世界の中でどれだけ独自のものが作り出せるか。また友禅の技法 からも現在でしかあり得ない凝った方向を開拓したいという職人魂もある。そんな中で欠 かしてはならないのは自然の中か造形の妙を感得し、それをとにかく写生を通じて自分の 考える納得行く形にすることだ。写生したものがどのように作品に変化して行くかを絶え ず考えている必要はあるが、それよりも大切なことは何か表現したいものがまずあって、 それを具体化するために写生が欠かせないという両者の一致だ。取りあえず作品の当ては ないが写生を何年も続けることも多いが、それでもその花を写生し続けることはその花に 何か愛着を感じているからであって、それが大切なのだ。写生を全くせずに作品づくりを する人もあるが、形あるものを表現する場合、自然を観察して見つける形にこそ面白いも のが溢れている。それは机で考え込んでいても得られないものであり、結局は写生を続け た方が早いし独創的なものが生まれ得る。また、友禅なら友禅に便利なように写生の細か さをすることがほとんどであるし、慣れて来れば作品にすると面白いと思える形を選んで 写生をするから、無駄もやがて少なくなって来る。だが、そこがまた落とし穴と言えなく もない。 友禅の技法が固定化してしまうと、そこに当てはまらないものは最初から写生 しなくなるからだ。ここに技法に囚われがちな工芸の宿命があるが、そうした常に綱わた りと言えるような行為の連続の中で、少なからず独創的と言えるものが生まれて来る可能 性があるならば、それに賭けてみるというのが工芸家、友禅作家の運命ではないだろうか 。


  1,受注
     3,小下絵
  4,下絵
  5,白生地の用意
  6,青花写し
  7,糸目
  8,地入れ
  9,色糊置き
  10,糊伏せ
  11,豆汁地入れ
  12,引染め
  13,蒸し
  14,水元
  15,糊堰出し
  16,糊堰出し部の引染め
  17,糊堰出し部の彩色
  18,再蒸し、水元
  19,乾燥
  20,糊抜染
  21,彩色
  22,ロ−堰出し
  23,墨流し染め
  24,ロー吹雪
  25,ロー吹雪部の彩色
  26,ロー・ゴム・オール
  27,表具
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