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 二曲屏風『夏日』

●3 小下絵

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(図1)スケッチブックなどを参考に
しながら小下絵を熟考する。



(図2)第1案



(図3)第2案



(図4)最終案


生を元に小下絵に まとめる行為は、キモノの場合とあまり変わらないと言ってよい。小下絵の寸法は、屏風 が180センチ四方程度ならば、原寸の8分の1にして、キモノの小下絵とほぼ似た寸法 にしているが、これはもっぱら使用しているスケッチ帳にぎりぎり収まるためで、こだわ りがあってのことではない。なるべく下に敷いた紙が見えるような薄手の用紙で、しかも 着色に便利なような紙であれば何でもよく、縮尺も自由でよい。しかし、ここではキモノ で述べたそうしたこととは別の、写生とその模様化という観点で屏風制作に内在する問題 点と筆者の考えを以下に書く。
 筆者はキモノでは模様により近く、屏風では絵に近いという表現の差を意識しているが 、これは同じ写生を利用しながらもそれらの省略、単純化の度合いによって模様に近くな ったり、また写実に近い絵になったりするということを意味している。とはいえ、これは 物事をかなり単純化した表現であって、実際はたとえばどのような植物を描いても、単純 化すれば文様で、複雑なままなら絵といった割り切りは出来ない。これは写生したことの ある人なら即座に実感することで、立体の植物を平面的に描くことだけでも無限の方法が あるし、また植物はずっと固定の形をしておらず日々変化するものであるから、それにど う取り組むかという問題もある。さらには同じ花でも品種によって形や色が大いに異なる うえ、同じ品種の場合でも育つ環境で全く様相を変えることにもいくらでも遭遇する。こ うした千変万化の花を前に、何を選んでどう表現するかは何の決まりもなければ、これが 真理への到達の唯一の方法といったものがあるわけでもない。しかし、そうした中で日本 では自然の文様化が著しく進み、ごくごく単純を線描による記号化によって、誰が見ても それが何であるかがわかる文化が作り上げられた。このことをまず念頭に置こう。
 写生をすることはその対象となるものに対して何らかの感興を抱いているからだが、そ の写生段階で対象の持つ特徴やあるいはその時の周りの空気、さらには自分の内なる感情 といったものが混合された形でひとまず素描という形で紙に定着される。これだけでもひ とつの表現であるが、それを長期間たくさんこなす中で次第にその写生対象が代表する一 種のたたずまいといったものが感得できるようになる。それを純化した目に見える形で作 品化することが創作行為ということだが、写生を元にそうした創作に移る時、これまた写 生の時とは違った、写生からもう一度描き直す際の取捨選択と、それに一方ではばらばら に存在するものを統合する思考が同時に必要となる。これは筆者の友禅の場合、写生から その対象の輪郭だけを選び、それらを後での色つけの行為も勘案しながら総合に向かうこ とと言い変えられる。そのような単純で一方向的に物事が進むのであれば、写生は単なる 本画の基礎としての素材に過ぎないことになるが、実際はそうとも言い切れず、写生行為 とその収穫の中にすでに本画への重要な要素がふんだんに存在している。これは本画を予 め意識して、その本画に見合うような、つまりそのまま利用できるような形を探して写生 をするということにもなるが、筆者の場合はそうしたことも含みつつ、写生は存在してい る。つまり、面白い形で花が咲いているといった光景に出くわした時がすでに本画の大半 は脳裏に実現化していると言える場合が多い。後は写生をたくさんして、その面白いと思 える形の核心をどんどん煮詰め、ついに本画の実現に至る。そこには写生の契機となった 面白い形への感動もあれば、その時の空気感の再現への努力の跡も含まれるが、そうした 最初の感動の再現にのみ終わらない、本画としての完成度を目指すその制作途上でのこう でなければならないというモノの形へのこだわりも当然存在する。つまり、完成作は写生 に至ることになった自分の思い、写生によって得た形そのもの、そしてそれを使ってまた 新たに作った形といったものすべてが総合されて作り上げられたものだ。
 となると、小下絵を描く行為は、写生したものを利用しながら、小さな窓に取りあえず は完成作を思い描いてみることに等しい。その時にだいたいの形や色、さらには技法的な 制約をどう乗り切るか、また自分にとってどのような新しい実験が工程の中に可能かどう かなど、あらゆる見通しをこの小下絵で行なう。これは最初に書いたようにキモノの場合 と何ら変わらない。ただし、屏風はキモノとは違って人が身にまとうものでないため、ど のような絵であってもかまわない。キモノではまず使えないような花でも、あるいは花で なくても全くかまわないし、とにかくキモノとは全然違う絵というものが実現可能であり 、キモノと共通するのは友禅技法でしかない。しかし、どのような絵でも可能とはいえ、 そのどのような絵というものはすでに日本画や油彩画で無数に試みられているから、ここ で友禅技法を使用した絵を考えるとなると、それは当然、その技法的特長を利用したもの になる。友禅でしか出来ない何かを目指すことだが、その友禅がキモノの染色においては それこそ文様的なものから、それなりに絵画と呼べる写実風の作品までを歴史に持ってい るから、そうしたものを見つめつつ、それらとは違った表現を追求することになる。そこ で問題となるのが、写生を元にしてどのような絵を染めるかだが、キモノに染めるような 伝統的な文様をそのま屏風に用いてもそれは絵とはなりにくい。光琳の描く有名な屏風の 『紅白梅図』は中央に大きく流れる水が文様としてのそれであり、梅の幹はさておいて花 もほとんど写生を元にしたと言うより文様として伝わっているものをほとんどそのまま踏 襲して顔料で描いている。これは梅の花が5弁で比較的単純な形をしているため、わざわ ざ写生しなくても誰もが簡単にその形を描けるし、またそうした形でなければ梅だと判断 されにくい事情も反映している。これは本物の梅を克明に写生して、リアルな形をそのま ま描いても梅には見えないということを示す。それは三次元の物体を二次元に表現するこ との困難さと言えるし、ここに写生と絵のひとつのあるべき関係がうかがえる。具象画で あれば、対象を単純化してもなお作家の個性が表出して、それが誰にとっても何を描いた かがわかって味わい深いものであるが大切な条件と言える。
 写生は写真撮影ではないから、自然をいくら時間をかけて克明に描いたとしても自分な りの省略の思いが働いている。つまり、写生とは対象から何か自分が気に入るものだけを 導いて描くことと言える。そこにある意味では文様化の方法が介在するし、一方でよく知 っている文様を意識することにもなる。どの程度に実物の細部を写生するかは、筆者の場 合、どのように描けばもっともその特長をつかみ、後で作品にする時に最大限に役立つか で自ずと決まる。さきほど面白い形があれば写生すると書いたが、それは形自体が独特で あることのほかに、今後作品をつくるうえでそれが役立つという予感があるからだ。作品 に利用したいためにこそ写生すると言い切れるものではないが、それでも写生している段 階で完成作のおぼろげな姿を想像することは少なくない。そのため筆者の写生は後で友禅 をするのに不足のない意味合いを満たすような描き方をする。これは日本画や油彩を描く 人とはかなり違っていると思うし、またローケツ染や型染の作家とも違うだろう。作家そ れぞれに表現したい絵の細部の度合いが違うし、また色彩的にも差があるから、写生の表 面的な質が個々の作家において著しく相違があってもこれは当然と言える。筆者は友禅染 をするのであるから、まず糸目のことを念頭に置いて写生するが、これはモノの輪郭をか なり厳密に納得行くように引くことを意味する。糸目は線の表現であり、その線の間に色 が挿されるから、まず大切なのは線による形の表現であるからだ。その線の質によって絵 が厳しいものになったりそうでなくなったりするので、写生では花の輪郭は明確に描く。 そうして描いたものをそのまま布上に写して糸目で表現することは可能であるし、そうす ればほとんど写実的な日本画に近い絵が染め上がる。このことを一方の端に置けば、もう 一方には伝統文様をほとんどそのまま踏襲して組み合わせた絵という方法がある。前述の 光琳の屏風は筆者にはこの両端の中央に位置している絵に思えるが、ある意味では筆者が 考える友禅屏風もそういった世界に近い。友禅が写実に忠実であるならば、もっと微細な 表現が可能である日本画に席を譲らねばならないし、文様的世界に止まるのであればそれ はキモノから一歩も出ていないことになり、しかもキモノではまだ人にまとうものである ので、そうした文様表現こそが似合いのものであると言えるが、広げた状態で鑑賞に供す る屏風となれば、それはキモノをただ広げたような文様の絵であってよいはずがない。こ こに友禅屏風における道の難しさがある。
 正倉院に染色屏風が伝わる。それらは型と筆を併用したローケツ染や、あるいは型紙を 使用した顔料の吹きつけ、また板締めといった染色技法で染められている。今で言う日本 画に近いものを思わせるものと言えなくもないが、この当時はまだ文様というものが絵の 表現のかなり大きな部分を占めていたこともあって、画家の自由な個性による自由な絵と いうものは見られない。それは屏風が室内の調度品という捉え方が大きくて、屏風に絵が 描かれていても、屏風よりも絵そのものを重視する現代の鑑賞方法とはかなり違っていた ことを思う必要がある。現在盛んに日展系の染色家が制作している染色屏風は奈良時代の 染色屏風をどのように捉えているのかは知らないが、単なる飾り家具のひとつといったも のとしてではなく、れっきとした美術品を作っている意識が強いのは言うまでもないであ ろう。したがって正倉院の染色屏風は何ら参考にはならないだろうが、現在の日本画がそ うした素朴とも言える造形から次第に分化かつ純化して伝わって来たものであることを考 えるならば、染色による屏風が今一度正倉院屏風にあるような世界、それは日本画や油彩 画といったことに囚われれないもっとユニークな絵、あるいは文字も含めての造形表現だ が、そこに着目するのは決して無駄なことではない。正倉院の染色屏風が絵としては未完 性のものであり、それは単なる文様の歴史の中で捉えるべきものという意見はおそらくあ るが、絵とも文様ともまだ分けられない表現が日本にはあったと思うし、それは少なくと も先の光琳には歴然と存在した。生活が欧米化し、西洋的価値感が生活上でもあたりまえ のもののようになった昨今、そうした光琳の絵と文様の両方に立脚したような表現はすで にさんざん実践され尽くした古いものと考えられているふしがあるかもしれない。友禅で どのような絵の表現ができるかを考えた場合、それは写実から文様までのスパンを見わた すことにほかならず、そこに無限の段階の方法があると感じつつも、どのようにすれば独 特な価値を得た友禅で、しかも新しい絵の世界をも獲得するかと常に悩みは尽きないのだ 。


  1,受注
  2,写生
     4,下絵
  5,白生地の用意
  6,青花写し
  7,糸目
  8,地入れ
  9,色糊置き
  10,糊伏せ
  11,豆汁地入れ
  12,引染め
  13,蒸し
  14,水元
  15,糊堰出し
  16,糊堰出し部の引染め
  17,糊堰出し部の彩色
  18,再蒸し、水元
  19,乾燥
  20,糊抜染
  21,彩色
  22,ロ−堰出し
  23,墨流し染め
  24,ロー吹雪
  25,ロー吹雪部の彩色
  26,ロー・ゴム・オール
  27,表具
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