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 本振袖『四君子文』

●9 地 入 れ
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(図1)生地を張るためのポール支持部。
その1、天井部



(図2)生地を張るためのポール支持部。
その2、床部



(図3)生地を張り、
火の元に用心しながら
ベンジンを含ませた脱脂綿によって、
糸目を置いた部分の生地裏を
順に全部拭いて行く。


入れという言葉は引染め前の豆汁引きにも使用するので紛らわしいが、ここで説明 するのは糸目を生地裏にまで浸透させて防染効果を高めるための工程だ。ゴム糊と糯糊と では使用する材料が異なり、前者は耐水性であるので、揮発油やベンジンを使用するが、 後者は水を用いる。つまり糸目糊材の粘度を薄める時に使用するものと同じものを用いる 。まず前者を説明するが、ゴム糸目の場合は特に「キハツ地入れ」と呼ぶ。ゴムを溶かす ものであれば揮発油以外に何を使用してよい。20年ほど前までは安価で燃えにくいトリ クロロエチレンが使用されていたこともあったが、発癌性や地下水汚染の問題が浮上して 、今は使用されていない。パ−クレンという非燃性の溶剤はもっぱら整理工場がゴム糸目 やロ−を落とす時に現在でも使用しているものだが、これを買って来て用いてもよい。染 色業と出火は縁が深いので、可燃性のベンジンなどは極力使用を避けた方が無難だが、パ −クレン、あるいはゴム糸目糊を専門に希釈する他の溶剤などは、専門店で数キログラム といった、ある程度まとまった量でのみ入手が可能だが、長らく保存している間に完全に 揮発してなくなってしまう。それでは不合理であるので、ゴム糸目に使用する程度では近 くの薬局で1瓶のベンジンを買い求めることで充分事足りる。ただし、経験から言えば、 光沢の強い繻子の生地にベンジンを使用すると、浸透した区域に沿って染みの枠ができる ことがある。これが後の地染めの工程にまで影響を及ぼし、結果的に地色のムラとなるこ とが多い。これを防ぐには他の溶剤に頼ることも一考だが、それよりも霧吹きを使用する ことで浸透際をぼかすのがよい。とはいえ通常市販されている塩化ビニール製の丸い容器 のついた安価な霧吹きでベンジンを使用すれば、すぐにノズルがおかしくなって霧状の散 布できないので、昔ながらの口で吹きつける真鍮性の小さな円盤型容器がついたものを使 う。そうした道具はもはや骨董店にしかないと思われるし、息の吹きかけで散布するとい うことは、間違って揮発油を吸い込むことにもなりかねず、また霧状の揮発油を部屋中に 撒き散らすことになるのでくれぐれも火の元や静電気に気をつけ、必ず冬季でも火を全部 消して窓を全開にして作業を行なう。静電気の火花発生で引火して火事になる事件がよく 報告されているので、細心の注意を払う。ただし、これはゴム糊の場合に限ることで、糯 糊糸目では水を吹きかけるので心配はない。また霧吹きで地入れを行なう場合は生地の表 側の糸目に向かって吹きかける。
 揮発油を霧吹きで散布するのはいろいろと不安もあるので、通常は脱脂綿に揮発油を染 み込ませ、それを糸目糊を施した部分の生地裏からざっと拭きつけることで地入れを行な う。ただし、必ず1回拭くだけにする。同じ箇所を同時に往復、あるいは2度3度と繰り 返し拭くことはなるべく避ける。というのは1回拭くことで充分にゴムは揮発分を含んで 柔らかくなり、生地裏にまで浸透するからだ。それは実際にやってみるとすぐに目で確認 できる。表面がテカテカと光り、柔らかくなっているゴムをさらに揮発油で拭くと、糸目 がどんどん太く、しかも表面がへたってしまい、彩色後に白抜きの線とはならず、彩色や 地色が被さった鈍い仕上がりとなってしまう。また連続して拭くことで、生地裏に下りた ゴム成分が溶け出して糸目周辺をうすいゴム膜を張ったような状態にしてしまい、そこに 地色が浸透せずに生地裏がかなり白っぽく仕上がってしまうことにもなる。揮発油で拭く と、だいたい10分もあれば乾燥するが、それからならばもう一度拭くこともさほどかま わない。だが、それを部分的に行なうと、そこだけ糸目の太さが微妙に変化するので、再 度拭くのであればまた同じように最初から全部やることにする。キハツ地入れは総絵羽も のであっても1時間を要しないので、簡単な工程ではあるが、それでも拭き方はそれなり にコツを要するし、誤ってある部分に揮発油を余分に染み込ませると、そこだけがせっか くの細い糸目がふやけて締まりのないものとなってしまうので、一発勝負の大事な工程と 言える。また完全に乾燥するまでに生地表の糸目表面に触れると、すぐに糸目が剥がれて しまうので、作業中の生地の扱いには気を使い、拭いたばかりの表面には触れないように する。
 乾燥後はすぐに次の作業に移ることができるが、実はこのキハツ地入れはゴム糸目が終 わった後すぐに行なわず、糊伏せや引染めが終わって彩色の直前に行なう場合もある。し かしそれは分業として行なう場合の慣例と言ってよく、キハツ地入れは彩色者の手に委ね た方がいろいろと便利であるという理由による。つまりなぜキハツ地入れをするかと言え ば、生地の表面上にのみ定着している糸目糊を生地裏にまである程度均等に浸透させなけ れば、彩色の際に染料が糸目際で止まってくれなくて、それを越えて滲み出るという危険 を防ぐためで、糸目の状態はもっぱら彩色者の管理下に置くのがよいからだ。彩色段階の 染料の糸目外部への滲み(これを業界では「泣く」と言う)を防止するのは彩色者の技術 であり、もしそれがひどく生じるのであれば、彩色者はそれが生じにくくなる手段をいろ いろと講じなければならず、そのひとつとして、何度かキハツ地入れを繰り返すという行 為も含まれている。つまり糸目を行なった職人がキハツ地入れをした場合、彩色者にとっ てそれが充分でない場合があり、そうなればまた彩色者がキハツ地入れを行なうという二 度手間が生じる。それならば最初から彩色者に任せようという考えだ。ところが、地入れ をしないゴム糸目は生地表面にくっついている状態なのでかなり剥がれやすい。そのため 地入れをせずに糊伏せや引染め、そして糊を落とすために水元をすると、その段階でゴム 糸目の一部がしばしば剥がれてしまう。そうなると、再度その部分にゴム糸目を施す必要 が生じる。そうならないためにも、ここで説明している順序どおりに、ゴム糸目終了直後 にキハツ地入れを一斉に行なうのが最もよい。
 揮発油で生地裏を拭くには生地を固定する必要がある。大張り用の伸子に生地を張って は外すことを順送りに繰り返して作業してもよいが、総絵羽の場合は反物全体に糸目があ るので、順送りで作業した場合、多少は順送りのつなぎ部分を二度揮発油で拭いてしまう ことになりやすい。そのためにも反物を張り木に張って、端から順に拭いて行く方がよい 。この場合、右利きであれば張った反物に向かって右端から順に左へと移動する方が、拭 き終わって柔らかくなった糸目に左手の指が触れることがないので安全だ。というのは、 右手は揮発油を含ませた脱脂綿を握り、左手で生地を掴んでいるから、もし反対に左から 右へと拭き進むのであれば、揮発油でまだ濡れている生地耳付近の糸目を絶えず左手が触 れる恐れがあるからだ。また張り木に張る時には、1反全体を張れる屋内の作業場所があ ればよいが、狭い家ではそれは不可能であるので、1反をいくつかに分けて張ることにな る。この場合、後の引染めを行なうことを考えて反物の部位をつなげる。参考までに筆者 の作業部屋は長さが約7メ−トルであるので、それに収まる長さが原則となる。訪問着の 場合は、右袖と右身頃、左袖と左身頃、襟袵、そして八掛けの4つに分け、振袖では、両 袖、右身頃、左身頃、襟袵、八掛けの5つとしている。それら4つや5つに分けたものは 、それぞれ生地の両端で張り木に取りつけて生地を張るために長さ5センチほどの別布( 乳布)を糸で縫いつける。別布は反物のあまりを使用するが、使い古したもので よい。乳布や生地の縫い方はある程度決まりがあって、詳細は別のページに図示説明しておく。
 張 り木は部屋の端に建てつけされている頑丈なポ−ルに縛るが、このポ−ルは鉄製ならば直 径4、5センチほどのものを1メ−トルほどの間隔で2本立てる。もちろん反対側にも2 本用意するので合計4本が必要だ。鉄製のポ−ルを部屋に取りつけることができない場合 は直径10センチほどの丸太でもよい。ただし樹皮はきれいに取り除いたもので、表面が つるりとしたものにする。こうしたポ−ルを取りつけるには天井と床に穴を開ける必要が あるので、大工に依頼する。張り木は蝶番で開閉する釘の細いものと、釘がやや太くて数 も少なく、蝶番のないものがあるが、どちらでもかまわない。張り木をポ−ルに結ぶには 綿の白いロ−プにする。ロ−プのポ−ルへの結び方もよい方法があるので、それを別ページに図示説明し ておく。張り木に生地を取りつけてポ−ルに張り、特に引染めを終えた後などは、伏せ糊 の重さや水分をたっぷり含んだ生地を思い切り強く引っ張って、可能な限り生地を長さ方 向にたるみのないようにするので、その時の張力はかなりのものとなる。ポールはそうし た大きな張力に対して曲がったり折れたりしない強度が必要であり、また乳布も同様の張 力に耐える糸と縫い方でなければならない。
 さて、以上はゴム糸目の場合の地入れ方法であったが、糯糊の場合は様子が違う。糯糊 は水分を含むことで柔らかくなるので、揮発油の場合のように火気の心配をせずに済むよ うだが実はそうではない。まず生地を大張りの伸子に張って、糯糊糸目を施した表面に霧 吹き(前述の骨董店にあるような口吹きタイプのものでなくてよい)で水分を吹きかける 。そしてその部分の裏側をすかさず600Wの電熱器で炙って乾燥させる。すると生地表 面の糊分が生地裏面に浸透し、乾燥した段階ではっきりと生地裏に糊分が透けて見える。 霧吹き水分があまりにも多いと、細く引いた糸目でも表面がへたって太くなるので、様子 を確認しながら少しずつ行なう。霧吹きが面倒とばかりに、刷毛でざっと水を引いてしま う手もあるが、その場合は水分がたっぷり気味になるので、電熱器を2台用意して迅速に 乾燥させる。刷毛で生地に水分を含ませると、どうしても細い糸目には過分な量となり、 乾燥が遅れるとそれだけ糸目がへたる。電熱器で乾燥させる場合、できるだけ短時間に済 ます方がよく、生地をかなり電熱器に接近させることになるので、ついうっかりして生地 をほんのり狐色に焦がしてしまいやすい。これを「穂色(ほいろ)」と呼ぶが、こうなっ た時にはオキシフルを脱脂綿に含ませて満遍なく拭き取ると、かなりの程度までに白くな る。完全に白くはならなくても、地色が濃い場合は隠れてしまうのでさほど問題とはなら ない。電熱器のない時代は炭火で乾燥させていたから、ぱちぱちと弾く火の粉で生地を焦 がすことがあったというから、地入れ作業はとても危険な工程であったと言える。地入れ 前の糯糊糸目はぽきりと折れやすいが、地入れすることで生地への密着度が増し、乾燥し てもよほど手荒に扱わない限りほとんど折れることはない。ただし、生地表面に糊の線が 縦横に置かれている状態であるので、生地があちこち引きつってデコボコの状態になる。 これを伸子で無理に伸ばそうとすると、糸目が割れることもあるので扱いには気を配る。 ゴム糸目ではゴムが乾燥しても柔軟性を失わないためにこうした生地の引きつりは全く起 こらない。以上のように、キハツ地入れとは違って、糯糊糸目の地入れはなかなか手間が かかり、またゴム糸目のような細い線が得にくいので、今は特別な効果を狙う場合以外は ゴム糸目が生産現場では主流になっている。糯糊糸目の場合はゴム糸目とは違って地入れ 後にすぐに模様部分を彩色するので、張り木に張って地入れを行なわず、彩色の際と同じ ように大張り伸子に張って作業をする。この場合は人は動かずに生地を動かすことになる から、ゴム糸目のキハツ地入れ作業のように、固定された生地を人が移動しながら作業す ることとはちょうど反対の格好になる。


  1,受注、面談、採寸
  2,小下絵
  3,下絵
  4,下絵完成
  5,白生地の用意
  6,墨打ち、紋糊
  7,青花写し(下絵羽)
  8,糸目
  10,糊伏せ
  11,糊伏せの乾燥
  12,豆汁地入れ
  13,引染め
  14,再引染め
  15,蒸し
  16,水元
  17,彩色(胡粉)
  18,彩色(淡色)
  19,彩色(濃色)
  20,再蒸し
  21,ロ−伏せ
  22,ロ−吹雪
  23,地の彩色
  24,ロー・ゴム・オール
  25,湯のし、地直し
  26,金加工
  27,紋洗い、紋上絵
  28,上げ絵羽
  29,本仕立て、納品
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